キリスト教について
今号は、「キリスト教について」を書いていこうかと思う。
私は、宗教の自由がありますので、ここで何かを書くべきでないと考える。
ある質問回答の記事がありましたので、自身が気になったものを拾い上げてみました。
Q1 この時代に、神を信じることが必要でしょうか。
A1 必要です。信じることなしに、人は生きていくことができないからです。
ある人は、学歴を信じています。別の人は、健康や幸せな家庭を、この世での地位や名誉などを、生きていく上での頼りとしています。もちろん、お金を信じている人も、大勢いることでしょう。どの人にも、「わたしは~を信じる」というものがあります。「いや、わたしは何も信じない」と言う人は、自分が何かに頼っていることに気がついていないだけなのです。
だから、ほんとうに信じるに値するものがあるかどうか、ということが重要です。ほとんどのものは、失格です。永遠に残りはしないからです。「火で精錬されながらも朽ち」(ペトロの手紙一1章7節)ないもの、つまり「罪と死に対する勝利者」(コリントの信徒への手紙一15章57節)だけが、まことに信じるに値するお方ではないでしょうか。
まことの神を知り、信じてこそ、わたしたちは不安から解放され、活き活きと生きることができるでしょう。
「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか」(ヨハネの手紙一5章4-5節)
Q2 神を信じるのは、弱い人のすることで、意志の強い、まじめな人には、必要ないのではありませんか。
A2 どんな人でも、神を信じることは必要です。
たしかに病気や障害、老いなどを負う人々のなかに、深い信仰をもった人がいることは、事実です。しかし弱くない人間などいません。「自分はまじめで強い」と思う人は、自分を隠し、偽っているのにすぎません。人間をあまく見ているだけです。
聖書は、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19章18節)と命じています。この戒めを真剣に考えれば、自分の罪深さは、あきらかです。そんなことは、できていないからです。むしろ、まじめになればなるほど、自分の罪と弱さを知らずにはいられなくなることでしょう。
神を信じる者とは、自分が弱いことを知っている人のことです。それを隠さずに、神の御前で告白し、悔い改めます。自分の本当の姿を知っている人のことです。けれども同時に、その弱い自分をゆるしてくださる神の愛を知っています。だから、この神の愛に押し出されて、あきらめずに、粘り強く生きていくことができます。
「なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(コリントの信徒への手紙二12章10節)
Q9 造り主である神は、人間に対して、守るべきどのような戒めを与えておられますか。
A9 主イエスが、旧約書の律法全体を二つにまとめておられます(マタイ23:37-40)。
第一は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(申命記6:5)です。また第二は、「隣人を自分のように愛しなさい」(レビ記19:18)です。これが、神がわたしたちに求めておられることです。
けれども人間は、この律法を完全に守ることができません。それは、人間がもともと自分中心で、神と人とに逆らう性質があるからです。聖書はこれを罪と呼び、「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです」(ローマ3:9)と指摘しています。だれもが、神にそむく、自分中心の罪人です。
罪はわたしたちの奥深くにまで入り込み、支配してきます。とても人間の努力や修行で克服できるものではありません。この罪からわたしたちを解放し、自由にするものこそ、神の救いにほかなりません。
この3点に関心を持ちました。皆様は、どのように思いましたか?
各々の考えがあるかと思います。
キリスト教を信仰されていらっしゃる方は、その教えを貫き通していただきです。
次号は、前号で郡山市の菊池医院をクローズアップしましたが、その院長 菊池信太郎氏にクローズアップしたいと思う。
今号もご覧いただき誠に有難うございました。
次号もお楽しみにご覧いただければと思います。
また、ご意見、依頼等ございましたら何なりとお願いいたします。
フリージャーナリスト 奥 山 光 太 郎
E-mail: ocs309@yahoo.co.jp